かまたまきぶん

学生ライターかまたまのブログ。きぶんの浮き沈みが激しいです。

「呼ばれる」という幸せ

 

 

こんにちは、かまたまです。

 

いま私は大学4回生なんですが、昨日、卒業式用の袴を予約してきました。

 

そのときに対応してくれた店員さんが、私のことを呼ぶときに「お嬢さん」って言ったんです。

 

私を担当してくれたその店員さんだけじゃなくて、そこの袴のお店の店員さんはみんな、予約しに来た学生を「お嬢さん」って呼ぶ。

 

袴を試着してみたのもあってか、「お嬢さん」って呼ばれると、本当に、「お嬢さん」って気分になるんですよね。

不思議なことに。

 

「なによお嬢さんって」とか心のなかでトーン高めに言ってしまうぐらいには、もうだいぶ「お嬢さん」になってしまってた。

 

『ハイカラさんが通る』って漫画、あるじゃないですか。

あれめちゃくちゃ大好きなんですけど、あの漫画に出てくる主人公の紅緒さんとか、環とか、ああいう明治の「お嬢さん」って、すっごい可愛いと思う。

着物に袴にブーツ、大きなリボン。

清楚でいて快活。

大人っぽくてあどけない。

そういうのに憧れてたのかもしれない。

 

少女でも女性でもない「お嬢さん」のタイミングって、本当に今しかないって気づかされたような気がする。

そこに気づいた時点でもう「お嬢さん」じゃないのかもしれないけど。

 

でも「お嬢さん」と呼ばれるまで、自分は「お嬢さん」ではなかったわけで。

そう呼ばれてはじめて、「お嬢さん」の私、というアイデンティティが私の中にあらわれた。

 

「呼ぶ」というのは、とても影響力のある行為だと思う。

その人をそう「呼ぶ」ことで、その人を定義し、一種の枠にはめることができる。

 

「~ちゃん」と呼べば距離が縮み、「~先輩」と呼べば目上になる。

「お前」と呼べば奴隷的だし、「彼氏」と呼べば恋人になる。

 

私が何気なく目の前の人を呼んだ瞬間に、その人は私によって定義されるのだ。

一時的に、一方的に。

 

無意識に悪用していないか心配になるぐらい、その強制力は強い。

 

私は、誰かに自分の「定義」を押しつけていないだろうか。

何らかの役割を無意識に強いていないだろうか。

 

誰かを「呼ぶ」からには、そう呼びたい理由や、愛情や、理解をする努力を、忘れてはいけないと思う。

 

でも、自分のことを考えてみれば、「呼ばれる」というのは、とても、幸せだなと思う。

 

「お嬢さん」と呼ばれなければ、「お嬢さんの私」は生まれなかった。

「かまたま」と呼ばれなければ、学生ライターの私は生まれなかった。

 

私の名を呼ぶ人は、その呼び方でもって私の存在を世界に置いてくれているのだろうと思う。

 

呼ばれるというのは、認められることと同義だ。

私にとっては。

 

 

呼ばれることで、私は世界に存在しているのだろうと思う。

 

「呼ばれる」というのは、とても、幸せだ。

 

 

呼ばれたい人に、呼ばれたい名で呼ばれるように、私は生きていきたい。